太陽 ENGINET | 七福神蓄財倶楽部 月

私が見た、夢でもなく現実でもない世界

第16話 貧富の食卓


作者 目次


貧富の食卓

私はその日、知的障害のある詩人の青木翔太郎氏と二人で超高層ビルの前に立っていた。ビルの入り口には黒塗りの車がズラリと並んでいた。
どうやら其処は高級ホテルらしい。
私達は二人でホテルの中へ入った。エントランスの天井はまるで天まで届くかの如くどこまでも高く、豪華なシャンデリアが眩いばかりの光を放っていた。
私達は奥のエレベーターに乗り込んだ。
そのエレベーターには50階以外にはボタンが付いていなかったので、50階のボタンを押した。
ドアが閉まろうとした瞬間である、幾人かの作業着を着た労働者風の男達が入ってきた。
体臭はかなり汗臭くエレベーターの中は男達の汗の匂いが充満した。
いきなりエレベーターが開いた。
すると其処には廊下も無くいきなり目の前に、高級レストランらしき広々とした空間が広がっていた。
「いらっしゃいませお客様こちらへどうぞ」
どこかで見たことのある様な顔をした若いボーイの案内で私達は窓際の夜景が見える、もっとも良い席に案内された。
「此方が本日のコースでございます!」
ボーイはメニューを開き、私達の前に置くと去って行った。
メニューを見ると本日の前菜からデザートまでが記されていた。
私達は落ち着かないまま、ふと隣の席を見てみると浮浪者風の汚い服を着た男女が丸いテーブルに座っていた。
詩人の青木氏はやたらとテンションがあがり、いきなり叫びだした。
「そうだ!今日僕達はこのレストランに招待されたんだ!」
私は気を落ち着けて、更に辺りを見渡すと、他のテーブルには先程エレベーターに乗り込んで来た労働者風の男達のデカイ笑い声が聞こえてきた。
そのまた向こうのテーブルには背中を曲げた老夫婦が座っていた。
少ししてウェイトレスが隣の席に注文を聞きにきた。
しかしよくよく見て見るとそのウェイトレスはテレビによく出る著名な女政治家であった。
私の席にも先程のボーイが注文を取りに戻ってきた。
よくよくそのボーイの顔を見てみると其れは著名なアイドルタレントであった。
私は思った!このレストランは通常の世の中とは違って全く社会的立場が逆転していると!
そして青木氏はまた叫んだ!
「やったー!ぼくたちの時代が来たんだ。これからはぼくたちの時代なんだ!」
すると労務者風の男がおもむろにテーブルに座り、そして言った。
「君ほどのバカはなかなかいない。」
「はい、ぼくはバカなんです。」
と、青木氏は元気よく答えた。
「自分を愚かと知るものはすでに賢者なのだ。
君は素直だから、説明をしてあげよう。
ここに現れている光景はカルマの世界を表しているのだ。
それは、与える者が与えられる、自分のなしたことが自分自身に返る、というとても単純な原理だよ。」
「それはとても不思議な原理ですね。ぜひその原理を教えてください。」
「仏典にはとてもわかりやすい譬え話があるからそれで説明しよう。
ここに大きな円形の食卓があった。
円形の食卓で囲まれた中央にはおいしそうなごちそうが盛られていた。
そして食卓の各席にはとても長い箸だけが置かれていたのだ。
はじめに餓鬼たちがこの席についた。
餓鬼たちは先を争って目の前のごちそうを箸で取って食べようとした。
しかし、誰もごちそうを食べることは出来なかった。
なぜなら、箸が長すぎてごちそうを自分の口に持っていくことが出来なかったからだ。
次に天界の神々が同じ食卓に着いた。
神々は長い箸でごちそうをつまむと、互いに競い合って他の神々の口にそれを運んだ。
こうして神々はごちそうをすべて食べることができたのだ。
同じ食卓についたのに餓鬼と神々では正反対の結果が待ち受けていた。
これがカルマの違いなのだ。
餓鬼たちは、生きることは自分が何かを得ること、自分が利益を得ることなんだというカルマに従って生きている。
そのため他に与えるという発想は生まれず、ごちそうを食べることが出来なかったのだ。
反対に天界の神々は生きるということは自分が他に何かを与えること、他を助けてあげることなんだというカルマに従って生きている。
そのためごちそうをすべて食べることが出来た。
この世では同じカルマを持った人々が集うのだ。
餓鬼のカルマを持った人達は同じような餓鬼のカルマを持った人達と出会い、お互いに奪い合って何も得ることができない。
天界のカルマを持った人達は同じような天界のカルマを持った人達と出会い、お互いに与え合って満たされるのだ。」
「それはいい話です、とても分かりやすいです。
では、今この食卓に座っている人たちは餓鬼なんですか?」
「そうではない。
この食卓に座っている人達は普通の人たちなのだ。
普通の人たちのカルマは一つの方向に向かわないのだよ。
ある時は餓鬼みたいに自己の利益ばかりを追い求め、ある時は天界の神みたいに人助けをしようとする。
1日のうちでもカルマの方向がコロコロと変わるのだ。
そのため運命も一定しない。
幸福だと思っていたことが次の不幸の種になったり、不幸だと思っていたことが幸福をもたらしてくれたりする。
これを禍福はあざなえる縄のごとしという。
これが普通一般の人達の人生だろう?
ただ、普通一般の人達にはある共通する大きな特徴があるのだよ。」
「その特徴とはなんですか?」
「それは社会というものを超えられないということなんだ。
社会というものを超えて物事を見るということが出来ないのだ。
いつも社会に従い、社会という枠の中で生きようとする。
自分が教わった常識の中で生きようとする。
そんな社会人として生きることがまともだと信じて疑わないのだ。」
「当然ではないですか?
そこに何か問題がありますか。」
「その答えを表現しているのがまさに君が見ているこの光景なのだよ。
この食卓に座っているということが何を意味しているかわかるかな?
それは、常に社会が自分に何かを与えてくれる、世の中が自分に何かを与えてくれることを待ち望んでいるということなんだ。
これが普通の人達に共通するカルマだ。
この食卓に座って、社会が少しでも良くなって自分たちに与えられるものが豊になってくれることを願っているんだ。
一方、立って食事を配っている人達は逆のことを考えている。
自分たちが社会を変えてよりよくしてやろう、自分たちが社会に何かを与えてやろうと、いつでもそのように考えている人達なんだ。
だから彼らは食事を配っているんだよ。
私の言ったカルマの法則を思い出してごらん。
与えるものが与えられる。
社会に何かを与える努力ばかりをしている彼らは、現実の世界では名誉でも地位でも財物でも普通の人たちより多くが与えられるのだ。
普通の人達は社会が変わってくれることを待ってばかりいるから、現実の世界では名誉でも地位でも財物でもたいしたものは得ることができないのだよ。
そうしてゴシップ記事などに夢中になり、自分より豊かになっている人々を嫉妬したりうらやんだりしながら生涯を送るのだ。」
「しかし、不正なことをしながら豊かになっている人たちも数多くいるのです。」
青木氏はそう反論した。
「見かけ上はそう見える。
メディアの提供する情報に流されている人たちは見かけ上の世界にのみ反応する。
しかしカルマの原理から世界を眺めた場合、不公平なことというものは全くない。
見かけ上どんなに不当に見えたとしても、与えられる者は、過去にそれを得るに見合った努力をしたから得ることができるのだ。
カルマの法則は絶対なんだよ。
逆に、今どんなに恵まれている人でも、悪業を行えば必ずその果報がやってくる。与えるという努力を続けなければ、未来は貧しくなっていくのだ。
おごれる者久しからず。
平家物語の平清盛は、熱烈に真言密教を信仰して実践し、権勢というものの頂点に立つことができた。
しかし、最後は生きながら熱地獄に落ちてしまった。
たとえ仏法でもカルマの原理だけはどうすることも出来ないのだ。
現在は過去の行いの結果、未来は今の行いの結果なのだよ。」
「恵まれない人生でも、天才的才能を発揮した人やすぐれた業績を残した人だってたくさんいるんですよ。」
青木氏は再び反論した。
「そうだね。
そういう人たちは自己というものを価値あるものへ昇華することが出来たんだよ。
それはそれで素晴らしいことだ。
しかし、生まれ持った運命を超えられないという限界があったのだよ。
幸福をもたらすカルマを福徳という。
恵まれない天才たちには福徳というものが決定的に欠けていた。そして、自己の目的を優先し、福徳を得るための努力もしなかったのだよ。
キリストは福徳の無い天才の典型的な例だね。
大多数の人たちは生まれたときから福徳が乏しく、福徳の何たるかも知らない。それ故にキリストの生き方に共感を抱くのだ。それ故に彼は人類で最も有名な人と呼ばれているのだ。
君は幸福な天才と不幸な天才とどちらになりたいと思うかな?」
「ぼくは、どちらかというと幸福な天才がいいです。」
「それならば君は仏陀の教えに従うといい。
今から2000年以上も前に、仏陀は福徳の無い人でも確実に福徳を得ていくことのできる法を説き明かしたのだよ。
それは、人をして他に与えることの出来る人に変えていく法なのだ。」
「僕は世の中に与えられるようなものはたいして持っていません。」
「君は君のままでいいんだよ。
誰にも見られず野に咲く一輪の花の美に着目すべきだ。
君は君自身の心というものをいつでも世界に与えることができる。
君が君のままでいながら、しかもよりよい方向へ変わっていける方法がある。
人はその本質的傾向において変わったりしない。これもカルマの法則だ。
しかし、その方向をよりよい方向に向け、それを拡大していくことが出来るのだ。
それは仏陀によって発見された四つの正しい努力と呼ばれる法なんだ。
これは仏典の中で四正断と呼ばれている法則なのだ。
この法は強力かつ確実に人の運命を幸福へと向かわせ、反対の方向には決して向かわなくさせるのである。
カルマの方向が決まるだけでもう普通の人ではないのだよ。
四つの正しい努力には順序がある。

その第一は今ある悪業をやめていく努力である。
業とは心と言葉と身体の働きを言う。
これらのうち心こそがすべての業の発生源である。
心におけるむさぼりや怒りや愚鈍さを取り除いていくのだ。
心の悪業はすべて心のゆがみから発生している。
自分の心を他人のようにくりかえしくりかえし観察し続け、それらのゆがみを解きほぐし、成仏させていくのだ。
これらの心はみな先祖から来ているのだよ。
それだから昔の人たちは先祖供養と言ったのだ。
先祖の心は複数ある。根気のいる作業だが、必ずやらなければならない。
心のゆがみを引きずっている限り、苦しみがあとからついてくることが終わらないだろう。
鉄の棒をこすって針にするようなつもりで、根気よく心によって心を観察し続け、自己の根底を照らし出していくのだ。
これは、要するに心をきれいにするということなのだ。

第二の努力は今無い悪業を未来に生じさせない努力である。
今無いのだから、それは自分の心を観察しても見つけることは出来ない。
他を観察し、世の中を観察するしかないのだ。
この世の中で、他人を傷つけるようなこととは何か、他人に嫌がられることとは何か、他人から疑われるような行いとは何か、このような事柄を日々観察し、それらをしないようにしていく努力なのだ。
自分一人ではわからない。他人の言葉に謙虚に耳を傾けなければならない。
それは常に他を思いやること、他に対する気配りをすること、人前ではルールとマナーを守ること、体面を保つことを意味するのだ。
そして太陽の光のように無差別平等に他を思いやる心を広げていく努力をする。
これはとても地味な努力であるが、絶大な効果をもたらす。
かつて釈迦如来はその前世において無差別平等の慈悲の心を七年間瞑想したという。それだけで、創造主の地位を7回経験したというほどすごい力があるのだよ。

第三の努力は今無い善業を未来に生じさせる努力である。
これも今無いのだから、自分の心を観察しても見つけることは出来ない。
他人の良いところを模倣し、先人の残してくれた優れたものに学び、現在生まれている優れたものを取り入れることを意味する。
要するに勉学に励む、学び努めるということなのだ。
学ぶとはまねるということ、他人の長所を謙虚に認めるということなのだ。
学ばない人にはいかなる発想も広がらない。自己を拡大していくということが出来ないのだ。
世界を見渡し、どこにだって優れたものはある。何処にだって学べる事はある。
それ故に、勉学を好む者はあらゆる事柄に好奇心が旺盛なのである。
如来は前世においてありとあらゆる善業を行って自己を限りなく拡大していったという。この三千大千世界において、生まれ変わって善業を行わなかった場所はどこにもないのだと、法華経には説かれているね。如来は三千大千世界を自己の善業によって飽和させてしまうほど貪欲に善業を積んだ結果、最上最高の福徳に満たされた生命の完成者となったのだ。

第四の努力は、既に生じている善業を増大させていく努力である。
これは、自分自身の良いところ、長所をどこまでも伸ばしていくこと、自己をつらぬくことを意味する。
これまで述べた三つの努力をきちんとなしているならば、この第四の努力は最も楽しく出来ることなのだ。
要するに自分のやりたいこと、好きなことだけをやっていればよい。そして自分にしか出来ないこと、自分の本当にやるべきことを明らかにしていくのだ。
如来は、創造主、神々、ヨーガ行者を含むこの全宇宙の領域で自分以上に貪欲に自己の幸福を求めるものは誰も見いだせないと断言している。
第四の努力によって、幸福の極致を極め、如来のような幸福の帝王になることだって可能なのだ。

お日様によって育つ植物を思い浮かべるといい。
第一の努力は水に譬える事が出来る。
第二の努力は日光に譬えることが出来る。
第三の努力は肥えた土壌に譬えることが出来る。
植物に水をあげ、日の光をあて、豊かな肥料を与えれば、何もしなくとも自然に育っていくだろう?
第四の努力も同じだ。それまでの三つの努力をしっかりと行えば、遊びながら出来る最も難易度の低い努力なのだよ。

多くの人は、最初になすべき三つの努力を嫌がり、第四の努力から始めようとする。それ故いつまでたってもうまくいかないのだ。恵まれない天才たちも実はこのタイプなのだ。
自分の心をきれいにすること、他を思いやること、学び努めること、誰もが嫌がるこれらの三つの地味な努力を徹底的に行っていれば、後は君の好きなことだけをやっていればいい、それだけですべては成就する。
君は君のままでいいとは、そういう意味なのだよ。
この四つの努力をくり返していく者は、自分自身を大木にだって育てることができる。そればかりか、終局的には如来になることさえ可能なのだ。
この世の大木になった人は他を助け、世の中に与える人となるのだ。」
「すばらしいです。
心をきれいにすること、他を思いやること、学び努めること、自分のやりたいことをすること、単純明快です。
この法のすばらしさに気がついている人がどれほどいるというのでしょう。
2000年以上も前に説かれているのに、未だにほとんど誰もその価値に気がつかないのですね。
四つの努力をこの順番にくり返し、ぼくも大木になり、世の中に与える人となります。
ぼくは、他の人を幸福にしてあげたいのです。」
「誰も他の人を幸福にすることはできない。
誰も他の人を不幸にすることもできない。
幸福になるのも、不幸になるのもその人次第なのだ。
未来はその人自身の行いが作り出す。
これがカルマの法則だったよね。
けれど、他の人が幸福になるための手助けならいくらだって出来る。
正しい教えを伝えてあげることは最高の手助けだよ。」
「僕の実践している教えは南無妙法蓮華経ただ一つです。」
「それはすばらしい。
それならば、君は、心をきれいにすること、他を思いやること、学び努めること、自己をつらぬくこと、この四つを南無妙法蓮華経ただ一つに込めればいい。
そうすれば、南無妙法蓮華経を唱えるごとに四つの努力をしていくことになるのだ。
君は誰か尊敬する人はいるのかな?」
「はい、僕には命を差し出してもいいほど尊敬する人がいます。」
「その人は、お金や地位や名誉に恵まれているのかな?」
「はい、その方は世界で最もお金や地位や名誉に恵まれた人たちのうちの一人です。」
「それならば、その人は若い頃から世の中に与える努力を一生懸命し続けたのでしょう。
違うかな?」
「そのとおりです。世の中に与える努力をし続けたのです。」
「では、その人はここで食事を配っている人たちの中にいるはずだ。
探してごらん。」
青木氏はあたりを見回して、探し始めた。
「見つけました!
食事を配っています。
両手にお盆をのせ、頭の上にまでお盆をのせています。
誰よりも世の中に与えようと努力しているのです!」
青木氏は興奮して叫んだ。
「それならば、君に一つ質問をしよう。
尊敬する人がいるならば、人はその人に従い、その人の生き方にならい、その人の生き方の模倣をするのが筋ではないのだろうか?
違うかね?」
「その通りです!
尊敬する人の生き方にならうのが筋です。」
「それならば君はなぜそこに座っているのだ。
今すぐその席を立ち、尊敬する人と同じことをすべきではないのか。」
「その通りです!
ぼくは同じことをします!」
そう言って、青木氏は勢いよく席を立ち、そしてごちそうを盛ったお盆を両手に持ち、頭の上にもお盆をのせて戻ってきたのだった。

了 2018/04/18




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