太陽 ENGINET | 七福神蓄財倶楽部 月

私が見た、夢でもなく現実でもない世界

第11話 曼荼羅レストラン


作者 目次


曼荼羅レストラン

その幻夢はとある喫茶店らしき店の中から始まった。
店内にはアール・ヌーヴォー風の工芸品や大正ロマンを感じさせるようなポスターが至るところに貼られていた。
店の真ん中には、何やら馬鹿でかい黒いボックスがあり、店内にはクラッシック音楽が流れている。
どうやら音はそのデカイボックスから流れてきているようだ。
店の中を見渡すと男女のカップルをはじめ数人の男女が静かにコーヒーを啜りながら眉間に皺を寄せ気難しい表情を浮かべている。
すると何処からもなく突然私の前にウェイターらしき人物が来て、
「お客様ご注文は何に致しますか?」
と言ってきた。
私は少し悩みながら、
「ブレンドを一つ」
と言ったが、
「お客様御冗談を、当店にはコーヒーは置いてありません。」
私はびっくりした表情を浮かべながら、
「ここは喫茶店だろう、何でコーヒーを置いて無いんだ」
不満をぶつけた。

「ははははは!
お客様、ウチは喫茶店ではありませんよ。よく店内をご覧になってください。」
私はもう一度じっくりと店内を見渡したが、何ら普通の喫茶店と変わりはなかった。
「なんだただの喫茶店じゃないか!皆コーヒーを飲んでるじゃないか!」
「お客様、皆様がお飲みになってるのはコーヒーじゃありませんよ。」
「コーヒーじゃない?じゃあなんなんだ!コーヒーじゃなくて皆何を飲んでるんだ?」
「お客様あれは当店自慢の薔薇のエキスの入った特製ジュースですよ。」

薔薇のジュース?そんなもの聞いたこともないぞ?
何か腑に落ちない感はしたが、
「それじゃ私もその薔薇のジュースをもらうよ!」
「はい、かしこまりました。お客様。」
少ししてウェイターは陶器に入った真っ赤な飲みものを私のテーブルに置き、
「ハイ、お客様これが当店自慢の特製薔薇ジュースです」
と言って微笑みながら去って行った。
私は期待と不安を他所に陶器を持ち口の近くに運んだが、なんとも言えぬ生臭い匂いが鼻先を劈いた。
其れは魚をさばく時にでる悪臭に似て、とても不愉快な匂いであった。
私は意を決して、その得体の知れぬジュースを一気に飲み干した。
すると不思議な事に鼻についた生臭い匂いは全く消え、薔薇の香りが口の中に広がり爽快な気分になった。
なぜか人間の凡ゆる五感が研ぎ澄まされたようで、店内に流れるベートーベンの月光が突然私の魂を揺さぶり、溢れんばかりの涙が流れでてきた。
すると例のウェイターがまた私の前に来て、
「どうですか?お客様?
当店自慢の特製薔薇ジュースのお味は?」
と言ってきたが、私はあまりの感動に包まれ言葉が出てこない。
「最高でしょ!ウチの特製薔薇ジュース!こんな新鮮な幼子の血をミックスして出してる店は他にはありませんよ!」
そう言い残しウェイターは店内中央にある馬鹿でかい黒いボックスの中へ入って行った。すると隣のテーブルに座ってた女や男が次々に席を立ち、音が流れでてくる、その黒いボックスの中へ消えていった。
私もつられるように、彼らの後について黒いボックスの中へはいってみた。
そこには、中央に大くて長い長方形の黄色い食卓があり、きれいに並べられた椅子の前にはナイフやフォークが揃えてあり、丸い白い皿が一枚づつ置かれていた。
不思議なことに椅子が並べてあるのはテーブルの片側だけであった。反対側には椅子はなく、白い壁に鮮やかな曼荼羅が幾つも掛けられていた。
ボックスの中に入った人は片側の椅子に順に腰掛けていったので、私も一番端の椅子に腰掛けた。
やがてウェイターが現れ、ゆでた肉のようなものを持って、黄色いテーブルの上にいくつか置いていった。
その肉塊をよく見ると、生まれたばかりの人間の赤ん坊をまるごとゆでたものにしか見えなかった。
まるで西遊記の世界ではないか。これは本当に人間の赤ん坊なのか。ウェイターが幼子の血と言っていた特製薔薇ジュースはこの赤ん坊から抜いた血だったのだろうか。
「これは人間の赤ん坊なのか?」
私は思わず叫んだ。
「人間のではありません。当店ではそのような品のない肉は用いません。」
とウエイターが答えた。
「当店は限られたお客様しか入ることは出来ません。お客様はご自分の両親を殺したからこそ、ここに招待されたのです。」
「両親を殺しただって?そんな覚えはないぞ。」
と私は再び叫んだ。
「両親とは自我意識のことです。人間は誰しもが自我意識の子供です。
両親を殺した人たちが集うこの店には既に自他の区別はありません。
あなたがたはあなたがた自身を見ているのです。
この肉はあなたがた自身の仙胎から生まれた胎児なのです。
仙胎から生まれた胎児を食べることによって次の階梯に進むことが出来るのです。」
ウェイターはそう言って、ナイフを持ち赤ん坊の丸ゆでを巧みに切りさばき、肉や内臓をそれぞれの席の皿に盛っていった。
「さあ、どうぞごゆっくりお召し上がりください。」
私は、ウェイターに言われるまま、皿の上の肉や内臓を食べてみた。エデンの園の食べ物はこんな味がしたのではないかと思われるような、どこか崇高で神秘的で甘い味がしたのである。
それは人間が人間になる以前の遙か昔の世界への郷愁を誘う味であった。
私が食べた肉は、たちまちのうちに私の全身に広がり、私の肉体が別な次元に移行していくのがはっきりと感じられた。
ひととおり食べ終わると、再びウエイターが口を開いた。
「どうです。仙胎から生まれた胎児の味は素晴らしいでしょう。この胎児によってあなたがたは、仙人になるための第一歩を歩むことが出来るのです。
その証拠をあなたがた自身で確認してください。
食べ終わった方は、目の前にある曼荼羅図を眺めてください。」
私は、目の前の壁に掛かっている色鮮やかな曼荼羅を見てみた。
すると、曼荼羅の色彩と形が互いに響き合い、その中から閃光のような光の輪が現れるのが見えた。
色彩と形はきらきらと激しくきらめき、光の輪はいくつも後から後から現れ続けた。
めくるめき恍惚の世界に誘う美しさであった。
曼荼羅とはこんなにも美しい世界だったのか。
私がきらめく曼荼羅に集中していると、やがて曼荼羅の思想の本質がダイレクトに私の意識に伝わってくるのがはっきりと感じられたのである。
始めに伝わってきたもの。それは、曼荼羅の本質は互いに相反する四つの普遍的真実の重ね合わせなんだということだった。
この四つの普遍的真実は互いに矛盾し、互いに反発し、互いに相手を否定しあう。それらが固く固くひとつの中心で結びついているのだった。
曼荼羅の色と形は互いに激しくぶつかり合い、互いに反発しあいながらも、互いに結びつくため、それが閃光となって、光の輪となって現れるのである。
そして曼荼羅の持つ極限的矛盾性の故に、光の輪は永遠に発光し続けるのである。
互いに反する四つの普遍的真実とは何か。

第一は苦しみである。
第二は欲望である。
第三は安らぎである。
第四は道である。

光り輝く曼荼羅を見ていると、これら四つの世界のお互いの関係がぶつかり合い、ビートのきいた音楽のように胸の奥に伝わってくるのであった。

苦と欲望は結果と原因、欲望が原因で苦が結果。
原因と結果、結果と原因は互いに相反する。

苦と安らぎは有ると無いの関係にある。
そこに何かが有るのが苦、何処にも何も無いのが安らぎ。
そこに何かが有ることと何処にも何も無いこと、何処にも何も無いこととそこに何かが有ることは互いに相反する。

苦と道は、痛みと快楽の関係、不幸と幸福の関係。
苦が痛みであり不幸である、道が快楽であり幸福である。
不幸と幸福、幸福と不幸は互いに相反する。

欲望と道は無秩序と秩序との関係、偶然と必然の関係、闇と光の関係。
欲望が闇の世界であり、道が光の世界。
光と闇、闇と光は互いに相反する。

欲望と安らぎは汚れと清らかさの関係。
欲望が汚れの世界であり、安らぎは一点の汚れもない清らかさの世界。
清らかさと汚れ、汚れと清らかさは互いに相反する。

安らぎと道は手段と目的の関係。
道が手段であり、安らぎがその目的。
手段と目的、目的と手段は互いに相反する。

原因と結果、手段と目的、汚れと清らかさ、幸福と不幸、苦と安らぎ、光と闇。
相反する六つの腕が、神のような巧みな手さばきで万象を創造し続ける。

ここに何かがあるということは、苦という一つの対極である。それは存在のすべての領域を意味する。苦はあるという事柄のすべてを表す。苦以外の何かがあることはない。
どこにも何もないということは、涅槃というもう一つの対極である。それは有もなければ無もない安らぎでの世界である。
あるという事柄のすべては移り変わり、現れては消えていく運命にあった。
それは、苦それ自身が涅槃を表現していることを意味していた。
安らぎに抱かれた苦しみは、十方世界に生滅を続ける宇宙輪廻を包含していた。

欲望原理は百八煩悩となって全宇宙を覆い尽くす。百八煩悩はすべての闇を包含し、世界を真っ黒に塗り潰す。
しかしながら、道はどのような闇の中にあっても光となって現れる。それは闇を照らしだし、あらゆる暗黒を遊びがてらに打ち破る。
光と闇の葛藤は、十方世界に変移するすべての相を彩っていた。

苦と安らぎ、道と欲望を結ぶ、両端を持たない線分は互いに十字を形成し、打ち砕くことの不可能な金剛世界を形成していたのだった。
これが、曼荼羅の十字構造。

欲望から生まれる苦しみ、原因と結果は一人の菩薩となった。この菩薩はあらゆる事柄が成り立つ仕組みを説き続けるのである。

涅槃とそこに至るための道、目的と手段は一人の菩薩となった。この菩薩はどのような困難も打ち砕き、あらゆる事柄を成就していく力を与え続けるのである。

欲望と安らぎ、汚れと清らかさは一人の菩薩となった。この菩薩は泥土の中の蓮花のように、汚れを用いて最も清らかなものを表現し続けるのである。

道と苦しみ、幸福と不幸は一人の菩薩となった。この菩薩は苦しみと幸いを同一のものと見なす人生を実践し続けるのである。

曼荼羅は互いに相反し反発しあう4つの要素で成り立っているのに、なぜ固く結びついているのだろう。
私はそんなことを考えながら、恍惚の中で曼荼羅を眺めていると、やがて私の意識は急激に上昇をしはじめ、ついに爆発した。

答えは単純であった。
曼荼羅を構成する4つの要素はすべて同じ一つのものを指し示し、同じ一つのものに向かっているからだった。

苦しみは消えていかなければならない。だから苦しみと言われる。消えていかなければならないということ、それが苦の掟である。それが消えていくためには、それが無常であり、移り変わるものであり、現れては消えていく幻影であることが理解されなければならない。従って、苦とはその本質を理解しなければならない対象なのである。苦の正体を理解し尽くした時、苦は余すところなく消えていく。苦を理解し尽くした状態、それは知るべきことをすべてを知った状態、真理そのものに到達した状態を表す。苦とはその本質において真理を指向しているのである。

欲望とはそれを克服し、そこから完全に解放されていかなければならない。これが欲望の掟である。苦しみが幻影とならないのは、そこに欲望があるためである。欲望が有る限り苦しみは生起し続ける。それ故に欲望はそれを滅していかなければならない。欲望を完全に克服し、そこから完全に解放された状態、それはすべてを成就した状態であり、真理そのものに到達した状態を表す。欲望とはその本質において真理を指向しているのである。

安らぎは実現されていかなければならない。これが安らぎの掟である。安らぎが実現していない状態とは、苦があることを意味するからである。それ故に安らぎは完璧に実現されなければならない。安らぎが完全に実現し、不動のものとなった状態、それは真理そのものに到達した状態を表す。安らぎとはその本質において真理を指向しているのである。

道はこれを実践しなければならない。これが道の掟である。道を実践し続けることによってあらゆる欲望は克服され、苦しみが消え、安らぎが実現する。それ故に道は実践し続けなければならない。道を実践し終わった状態は、苦が消えた状態、欲望が完全に克服された状態、安らぎが実現した状態であり、なすべきことをすべてなし終えた状態であり、それは真理そのものに到達した状態を表す。道とはその本質において真理を指向しているのである。

かくの如く、曼荼羅を構成する4つの要素はすべて真理を指向し、真理を到達点としている。
すべて同じもの、すなわち真理に向かっているのである。
それ故に、曼荼羅の4要素は相反するにもかかわらず、固く固く結合し、離れることが無いのである。

では、真理とは何ぞや。それは表現不能の世界であり、言葉で語られるいかなるものでもない。概念化しえない対象だからである。だからといって無いわけではなく、いつでも目の前にある。
道を知るとは、その道が示すゴールを知るということ。ゴールが分からない道は道ではないからである。
道の示すゴールは真理であり、表現不能の世界である。それ故に道の本質もまた概念化しえない世界である。しかし、道はいつでも目の前にあるのだ。

曼荼羅の本質が見えたぞ!
曼荼羅とは中心に真理を置く図像である。すなわち、中心には何もない。これが曼荼羅の本質だったんだ。曼荼羅の互いに矛盾する四つの要素は、定義不能な真理を捉えるための道具だったのだ。
真理は四つの方向から見ることが可能である。しかし、それには順序がある。始めに苦のを理解する。苦を理解すればその原因が欲望であることが見えてくる。それが見えれば、欲望から解放されると、安らぎが実現することが見えてくる。それが見えれば、苦を理解し、欲望から解放され、安らぎを実現していくための道という真理が最後に見えてくるのだ。
この道こそは、何もない中心に従って生きることなのである。曼荼羅とは真理を悟るための視覚を用いた解説書なのだ。その極限的矛盾の構図を理解するためには、脳を爆発させ、概念の世界を超えなければならないのだ。
苦を理解することがすべての根本であった。
万象はすべて移り変わる。
欲望はそれらを求めるが、それらは時の流れの中に消えてゆく。
これが苦の原因であった。
それ故に、欲望が消えれば苦も消える。
それならば、人が求めてやまない幸福とは何なんだ。
幸福というものがあるとすれば、それは苦の原因が消えていく道の中にしかあり得ない。道を知り、道を理解し、道を実践し、道をよりどころとすること。
これが、苦を知るものの帰着点であった。
曼荼羅とは人が道を知っていくための最も良く出来た教科書なのである。

懐かしいエデンの園。
原初のアダムは概念化しえない道だけに従い、道を胸の中に抱いて生きていたのだ。そこには死というものは無かった。深く崇高なる郷愁とともに、私はそのことを思い出した。
アダムが知恵の実を食べ、概念を使って物事を考えるようになった瞬間、すべてを見失ったのである。
曼荼羅は堕落したアダムの苦悩を超えていくための最高の道具である。そこではいかなる概念であってもそれを否定する必要さえ無い。どんな概念であろうと、曼荼羅の極限的な矛盾の構図の中に組み込めば、それは必ずや真理そのものを指し示すようになるからだ。人は矛盾したものは間違いであると教え込まれ続けた。しかし、そんな判断は人間ではなく、機械がやればいいこと。矛盾だけが真実なのである。

「お客様。仙胎の胎児の味はいかがでしたか。
曼荼羅の真髄を感得出来たでしょうか。
胎児はあなたがたの体内で育っていきます。
曼荼羅の真髄を見るのは単なる出発点です。
目に見えぬ曼荼羅の中心はやがて世界へと拡大していくのです。
木の苗がやがて大木になるように、自己の中に道を打ち立て、大信念、大信根、大不動心へと育てていくことができるのです。」

曼荼羅レストランを出ると、そこは篠つく雨であった。
降り続ける雨が人の作った建物や緑陰を潤していた。
世界がどんなに複雑であろうと、雨滴のやることはただ一つ、高いところから低いところへ流れるだけ。
現代社会がどんなに複雑であろうと、人のやるべきことはただ一つ、苦の原因を消していく道に従うだけ。
一滴の雨水に全宇宙が反映している。
私は、一滴の雨水の中にも曼荼羅を見ることが出来るようになったのである。

了 2018/01/20




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