太陽 ENGINET | 七福神蓄財倶楽部 月

私が見た、夢でもなく現実でもない世界

第10話 降霊会


作者 目次


降霊会

今度の幻夢には長い前置きとなる話があり、それを最初に話さなければならない。

それは、一通のハガキが自宅に届いたことから始まる。
差し出し人は松沢君という美術研究所時代の友人であり、内容は降霊会パーティーへの招待状であった。その友人の催す降霊会の話は、以前から聞いており、5、6人で、円いテーブルを囲んで、死んだ人間の霊魂を呼び込むというもので、ニーチェと、スピノザの霊を呼び込み、続いて日蓮の霊、最後にはお釈迦様まで登場したという眉唾ものの話であったが、私はからかい半分の気持でその会に参加する事にしたのである。
松沢君は父親が資産家であり、トレードやら不動産投資やらで大儲けをしているらしく、家族で豪邸に暮らしていた。
私は友人と一緒に、有明にある、海を一望できる高級タワーマンション最上階の松沢君宅へ向かった。10億円以上はするという豪邸で、お手伝いさんらしき人に案内されてきびしいセキュリティチェックを抜け、玄関にたどり着いた。
「進坊っちゃんはこちらで待っています。どうぞ、中へお入り下さいませ。」
私達は案内されるままに、家の中へと入った。玄関の上を見ると、吹き抜けの高い天井があり、西洋風の豪華なシャンデリアが一つ、ぶらさがっていた。そのすぐ脇には螺旋階段があり、私達はその階段を上り、長い廊下の突き当たりの部屋の前まで案内された。
中からは、パーティーの主催者である松沢君が出てきた。
「よく来てくれたね、さぁ中へ入って」
愛想よく私達を部屋の中へ招き入れてくれた。部屋の中へ入ると、大きな円いテーブルがあり、その上にも煌びやかなシャンデリアが一つぶらさがっていて、若い女の子二人と、男の子が一人いた。私達は、最後のゲストだったようだ。、
始めに、各々自己紹介を行った。
ジョルジュ・バタイユについて研究をしている東京大学文学部の女子大生、人工知能を専門に研究しているという20才そこそこの大学院生。投資と旅行を趣味にして世界遺産を巡る旅を続けているという、松沢君とは投資仲間の女性、といった面々であった。
「それでは、そろそろ、交霊をはじめたいと思います。誰か、呼んで欲しい人はいますか?もしリクエストがあれば、できるかぎりお答えします。生存している人はだめですよ。」
若いメンバーはなぜか皆、幼い頃に亡くなった弟だとか、すでに他界している祖父だとか、死に別れした自分の肉親をリクエストしたのだった。松沢君は順番にリクエストに応えて降霊を行うこととなった。 松沢君は目を瞑り深呼吸を始めた。約5分位、精神統一をしてから眼を開けると、険しい表情になった。立ったかと思ったらいきなり座り込み、顔をテーブルの上に伏せたかと思ったら、いきなり顔を上げると目が虚ろで、訳のわからない言葉を発し出した。
迫真の演技であった。
突然子供の声に変わって、「お姉ちゃん、おいらだよ健太だよ。寒いよ~。」などと叫んでみたり、年配者の声になって「利夫か、もう大学院へいっているのか。大きくなったなあ。」と語りかけてみたり、ゲストのほうは感極まって泣き出したり、恐縮してみたりと、部屋の中は大騒ぎであった。タワーマンションの最上階で恐山のイタコみたいなことが行われているとは誰が想像するだろうか。 私には、松沢君の大げさな所作がすべてうさんくさく、ただの演技にしか見えなかった。そこで私は演技かどうかをためしてやろうと思い、リクエストをしてみた。
「太宰治を呼ぶことは出来ますか?」
「出来ますよ。今までも何度も呼んだので、彼とは友達です。」
本当かよ!と思いながらも、
「では是非お願いします。」
とリクエストをした。
すると松沢君は、いきなりテーブルに突っ伏して、しばらく動かなくなった。そして、うっうっ!と低く唸りはじめた。3分ほどたってから、
「俺を呼ぶのは誰だ。」
と全く違う声で話しはじめたのである。太宰治なのかな?
「津島修治さんですか。」
と私は、語りかけてみた。
「そうだ。何の用かな。つまらん話ならすぐに帰るよ。」
と答えたので、私は単刀直入に質問してみた。
「苦悩とは何ですか。」
「よい質問だ。
君は人間の赤ん坊が愛らしい笑顔を大人に向かって振りまくのを見たことがあるだろう。あれは、赤ん坊が少しでも自分が有利になるようにと計算してやっていることなんだ。もちろん無意識のうちにね。
普通の人間は自分が無意識のうちに行う行動の意味なんか考えもしないし、気づくこともない。
しかし、オレは違っていた。
生まれたときから、自分の行動や言葉すべてが計算して行われていることが手に取るように見えたのだ。
少しでも自分が得をして、人を自分にとって有利に動かそうという卑しい計算をね。
これがオレの苦悩のすべてだった。
苦悩している自分自身さえも計算して行われているように思えた。
だから死に憧れた。
死ぬことこそが自分自身の表現だったのだ。
オレはそんな自分がただの道化であることも自覚していた。
苦悩とは、存在することそのものなんだ。」
と、太宰治らしき人が語った。
演技にしては妙に説得力がある。私は内心感心しながら、さらに質問をした。
「死んだからといって、苦悩が無くなるわけでは無いでしょう。
あなたは、苦悩する人間の良くない見本をお示しになった。」
「何が見本だ!それこそくだらん計算だ。
オレは自分の人生を通して道化の精神というものを表現しただけなのさ。」
「しかし、苦悩とは立ち向かうべきものでしょう。
そこから逃げることはできない。」
「やかましい!シャーラーーーップ!
苦悩に立ち向かうなんてことが出来るものか。
何かに立ち向かう以前にすでに苦悩はそこにあるのだ。
自分の心の深層を観察したこともないキミには分からんのだろう。
苦悩は存在と関係しているのだ。
存在そのものが苦なのかも知れない。
ここに何かが在るということ。それは一個の痛みなのだ。
オレだってすべてを知っているわけではない。
しかし、これだけは確信している。
苦は真理に直結している。
苦を知るものはすべてを知るに違いない。
オレはこの確信だけにしがみついていた。
それ以外に何も言うことはない。
オレはもう帰る。」
太宰らしき人の声がしなくなって、暫くの間松沢君は無言のまま下をむいて、眉間にシワを寄せ、疲れきった表情を浮かべていた。
「あぁ、疲れた。太宰治は呼びやすいけど、この世に未練がなさすぎてとても疲れる。」
「そんなに疲れるものなんですか?交霊って。」
東大生が質問をした。
「えぇ基本的に交霊はとても疲れるものなんです。」
「実際、霊が降りてくる時には、どんな感覚があるんですか?」
「どんな、感覚と言っても口で説明するのは、なかなか難しいのですが、一種のトランス状態になるんです。」
「トランス状態とは、どの様な状態になるんですか?無意識の状態ですか、それとも意識は有るのですか?」
真面目そうな東大生は、真剣な顔をして松沢君に質問を続けていた。
「意識か無意識かと言われると、それは、どちらでもないです。たぶん、意識と無意識の境を彷徨っている状態にあるのだと思います。」
「意識と無意識の狭間とは、どういう事ですか?」
「それは、私にもハッキリとは、わかりませんが、相手の意識が私の中に入ると、自然と私の意識が支配され、私は、何か自分の身体から離れるような感覚になるのです。」
松沢君は、尤もらしい答えをしていたが、私には、それがとても胡散くさく思えたので、ちょっと試してやろうと思い、私も質問をしてみた。
「松沢君、呼べる霊は、日本人だけですか?外人の霊も呼べるのですか?」
「外人の霊も呼べない事はないのですが、なかなか言語の問題があるので、難しいのです。」
「言語の問題とは、どういう事ですか?」
「外国人の場合は、言語が違うのでなかなか日本語への変換が正確に行われないのです。」
「と、言うと外国人の霊が降りてきた場合は、その人の国の言葉では無く、日本語に翻訳されるのですね?」
「そういう事になりますね。」
「それじゃ、松沢君は完全に意識がある状態じゃないのですか?」
「それは、先程も言いましたが、どのようなプロセスで翻訳が行われるのか、自分でもハッキリ解らないのです。」
「それではひとつ、松沢君にお願いがあるのですが、フランスの詩人のランボーの霊を呼んでいただけないでしょうか?」
「今日は、もう疲れたので勘弁してください。」
「では次回は、ランボーを呼んでくれますか?」
「次回なら大丈夫だと思います。今日は、とても疲れたので少し休ませて頂きます。」
そう言い残すと、松沢君は、疲れた表情を浮かべ逃げる様にして部屋を出た。
5分程して松沢君は部屋に戻ってきた。
「水素水を飲んできました。今日はありがとうございました。皆さんも疲れたでしょうから、作りたての水素水とお菓子でも食べていってください。」
そう言うと、お手伝いさんが出てきて、水素水のボトルと、名古屋のういろうや六条おせんべい、ベルギー産チョコレートなどを皆の前に配った。 水素水を飲みながら、松沢君は皆から質問攻めにあっていた。
「また、次回もよかったら来てください。次回はリクエストにあったランボーの霊を呼びたいと思います。」
そう言って、降霊会はお開きとなった。
「斉藤君はランボーをリクエストしたけど、ランボーが好きなの?僕もランボーは好きな詩人の一人なんだ。」
皆が帰ると松沢君は私に話しかけてきた。
「ランボーにはとても興味がある。ランボーが好きなら今度交霊でランボーを呼ぶのは、案外簡単なんじゃないの?」
私は、からかい半分で松沢君に尋ねた。
「まぁ太宰よりは、簡単かな。何せ、彼はまだ此の世に言い残す事が沢山あるみたいだからね。」
「ランボーはそんなに、此の世に未練があるのかね。」
「そうなんだ、彼は初期の頃は、詩によって革命を起こすことが出来ると信じていたからね。個の自由の確立を保証する革命に対して情熱を持っていたんだ。」
「では何故たった五年で、詩を書く事をやめたのかな?」
「それはねェ、前に彼に聞いた事があるんだけど、彼は本当は詩を書き続けたかったんだ。書きつづける事はできたが、彼は自らの意志で書く事を拒んだんだ。」
「何で、自らの意思で書くのをやめたの?」
「それを聞いても、なかなか本音を言わないんだ。
でも僕にはその理由がよく分かる。
彼は、政治と芸術家双方に失望したんだよ。
芸術家なんて、作品の中でこそ大きなことも語れるが、社会全体から見れば、他人の庇護によってしか生きられない非力な存在。
口先では、社会を批判したり風刺したりしても、実際は社会が自分を認めてくれることだけに期待をかけ、世の中による評価ばかりを気にしている。要するに社会に寄生するただの腰抜けじゃないか。俺はそんな芸術家になんか絶対になりたくない。
彼はそう思ったに違いない。詩を書くのをあっさりやめ、芸術家とは正反対の極にある軍隊に衝動的に入隊した。しかし、自由を奪われるのが厭で、数ヶ月で脱走した。
自力で生きることの出来る人間にならなければならない。そう痛感した彼は、ビジネスの可能性を探した。
本当は自分独自の独創的ビジネスを夢見ていたのだろうけど、経験の無い彼には何も分からない。とりあえず肉体労働をしながら商売を探し、貿易商と縁が出来た。
そして貿易を行うため、ヨーロッパやアフリカを放浪するうちに、地理学に興味を持った。ランボーは探検と学術研究をしながら、貿易をやるという生き方を思いついたんだ。
使用人を使って砂漠に調査団を送り、その調査報告を地理学協会機関誌に発表したりもした。
ヨーロッパからアフリカへの武器輸出も始め、アフリカ探検と商業ルートの開拓を同時に行う方法を確立した。王の顧問官とも懇意になった。しかし、やがて病苦に悩まされるようになり、37歳の時全身癌で亡くなってしまった。南国へ旅することを夢見ながら。
ランボーが衝動的な人生の選択のくり返しの中で求めていたのは自由な生き方とは何かということだった。芸術家の自由は空想の中にしかない。もっと自分の納得の出来る違う道を切り開こうとしたんだ。」
「ランボーは、自由とは何かということを追求していたということ?」
「そうなんだ。彼は早く生まれすぎたタイプの人。時代が彼の価値観を理解していなかった。今でも理解されていないと思う。
世界を自在に変えるイマジネーションを創造すること。
冒険を伴った真実の探求。
これらを実現するために必要なお金を自力で得ること。
ランボーは無意識のうちにこの三つの柱を確立することに憧れたんだ。

創造活動と真実の探究と経済的自立。

この三つの自由の柱を確立すれば、政治体制がどうであろうが、個人は完璧な自由を得ることが出来る。これが彼が密かに発見していた価値観だった。
それは、むしろこれからの時代を生きる人にとっての課題となるすばらしい発見だった。
ランボーは天才的な詩人として有名だけれど、ランボーの本質はむしろ後半生にある。かれの詩は未熟そものもだったんだ。鑑賞するための詩という枠を打ち破ることがどうしても出来なかった。ランボー自身が誰よりもそのことに気がついていた。だから、彼は詩を捨てたんだ。
本当の芸術は世界を変えていく力そのものなんだ。そこにおいては、人の評価を気にする必要は全くない。鑑賞の対象ではないからなんだ。ランボーは自分がそのようなイマジネーションを創造出来ると実感するまでは、表現活動は封印しようと考えたに違いない。
真実の探究と言えば、学術研究のことを誰しも連想するかも知れない。しかし、ランボーの求めた研究とは冒険であり、己の人生を代償にして得られる実体験だった。
そのような活動をするためにはお金が必要だった。ランボーは、自分の好きな研究をしながら、それが商売にもなりお金を稼ぐことができる、という方法を確立させるところまではいったんだ。
この三つの柱は互いに矛盾しているんだよ。バランスを取ることがきわめて難しい。」
と、松沢君はまるでランボーが乗り移ったかのように熱弁をふるった。
私は、松沢君の言いたいことは理解できた。
「確かに互いに矛盾しているね。
創造活動の本質は妄想の追求であって、真実の探求とは相容れない。そして、創造活動も真実探求の活動も、対価を得るためにそれをビジネスと結びつけようとしたら、世の中の需要に従おうとするため自由は無くなってしまう。
ランボーがこの矛盾を解決できなかったのも無理はない。
松沢君はどうやってこの矛盾が解決できると思う?」
「僕には解らない。
でもそれが解ったら今やっているような降霊会なんてしなくなるだろうな。親からも自立するだろうな。
それは、真理を悟るのと同じ事なのかも知れない。」
「松沢君自身は、裕福そうな暮らしをしているけど、表現活動や研究活動とお金を稼ぐことをうまく融合させることが出来ているのかな?」
と、松沢君の私生活について尋ねてみた。
「お金の作り方に関しては父から教わったんだ。
1千万円の余剰資金さえ作れば、それを1億円にするのは容易であり、1億円さえ作ればあとは幾らでも増やしていくことが出来るというのが父の口癖だった。父ははじめから金持ちだったわけでなく、不動産セールスの仕事をやって1千万円の貯金を作ってから資産作りを始めた。
僕も早い頃から父にトレードや投資のやり方を教えて貰っている。1億円以上のお金があるというだけで、色々な有利な情報が入ってくるようになるんだ。毎月投資関連の情報料を払っているだけで、はるかに見返りの多い結果を得ることが出来るんだ。父と合わせて、毎月300万円は情報料に使っていると思うよ。」
「へえ、一般の日本人ばなれした生き方だね。」
「今の日本人はそもそもお金の運用について何も教わらずに育てられている。その上、完璧なまでに洗脳されていて、サラリーマンや公務員しか安定した人生は無いかのように思い込まされているんだ。だから、お金の使い方や増やし方を全く知らない。
父は若い頃、仕事をしながらゴミあさりをしてそれを売ることを真剣になってやっていた。ゴミをお金に変えることを体得した人だけが、トレードでも成果をあげるんだって、これも父の口癖だよ。さすがに僕はそこまでやらなけれど、父と一緒にトレードをしていると、父の言いたいことがよくわかる。投資はトレンドを追いかけることではない、人々がゴミみたいに見なしているものの中から探すんだ。ここで情報というものがとても大事になるんだ。」
「面白いね。それで、降霊会が松沢君にとっての表現であり、研究でもあるということかな。」
「いま一つ、表現としての実感は乏しいんだよね。これで世界を変えられるとも思えないし。」
どうやら、松沢君はお金を作る力には恵まれていて文化に対する興味も旺盛であるが、自分自身の創作や研究についてはまだこれといった目標は見えていないらしい。 創作や研究の世界は金銭的には恵まれていないほうが集中出来るのかも知れない。やはり、バランスを取るのが難しいようだ。

さて、長々と前置きの話をしたが、私の幻夢はここから始まるのである。
降霊会から帰って、自宅で眠りにつこうとした瞬間、目の前に広々とした稲田が広がり、どこか重々しい空の下、ひんやりとした空気の中、黄金色の稲穂が風になびいていた。遠くに山並みがあり、東北地方を思わせる光景であった。
私の脳の奥の方で火花が散っていた。
稲の根元あたりから、赤い馬と黒い馬が現れた。逞しく丈夫そうな東北の馬であった。
ふと、後ろに人の気配がした。
振り返ると、どこかで見たことのある人物が立っていた。
太宰治ではないか!
写真で見た太宰治そっくりの人が立っている。
「こんにちは、太宰治です。
降霊会でお会いしましたね。」
と、その人物は静かに語り出した。
ええっ!あの降霊会で太宰治が現れたこと、あれ本当だったのか?
松沢君の演技だとばかり思っていたのに。
私は混乱しながら尋ねた。
「あの降霊会で、あなたは本当に降りたのですか。」
「そうですよ。
あなたは、人間の心や精神を扱う文化というものを知っていますよね。
宗教や、思想、芸術、芸能、祭り、呪術、みんなそうです。
これらは皆人間の心というもの、精神というものを伝えることによって成り立っているのです。
心や精神はどうやって伝わるのか、解りますか。
それは、人間の脳が創り出すイリュージョン、錯覚、幻影をとおして伝わるのです。
だから、あなたはあのまやかしの降霊会をとおして私と会ったのです。」
「それは、いったいどういう意味なんですか?」
私は尋ねた。
「わかりにくいですよね。丁寧に説明しましょう。
例えば文学作品、そこに作者がいるわけではありません。目の前にあるのは印刷された文字記号の組み合わせです。
音楽も同様です。そこにあるのは音の配置だけです。だからベートーヴェンは耳が聞こえなくても作曲ができました。
絵画はどうでしょうか。目の前にあるのは様々な顔料の配置だけです。
しかし、これらを鑑賞する人は、まるで作者自身がそこにいるかのように、作者の精神が伝わってくるという経験をすることがあるのです。
これは第一に人間の脳の働きに原因があります。
どんなストーリーとどんな言葉の組み合わせをすれば、それを読む人の脳内にどんなイリュージョンが発生するか、作者はそれを直感によって計算しながら作品を書くのです。私自身も言葉の一つ一つを選びながら作品を書いていました。
どんな音の組み合わせをどのように演奏したら、それを聴く人の脳内にどんなイリュージョンが発生するか、作曲家はそれを計算しながら作曲するのです。
どのような色彩と形の配置をどのような筆致で描けば、それを見る人の脳内にどんなイリュージョンが発生するか、画家はそれを計算しながら絵を描くのです。
映画や演劇だって同じですよ。登場人物のすべてを描写しているわけではありませんよね。その行動の一部だけを取り出して映像や演技として表現しているのです。それを見る人は登場人物の普段の生活や性格や内面の心の動きまで自分で勝手に想像するのです。これも脳内に発生するイリュージョンです。
登場人物の、言葉では言い表しがたいような複雑微妙な心の動きまで、見る人に想像させてしまうような演技は名演技と呼ばれるでしょう。私は、生前そんな演技が出来る役者になりたいと思っていました。
芸術作品におけるこのような要素は、一般に技術とかテクニックとか技法とか呼ばれていますよね。
優れた芸術家は、この技術が独自のパターンや傾向を持ちます。その場合、その作家特有の様式とか作風とか呼ばれます。巨匠と呼ばれるような作家は、この様式や作風がとても強烈で誰にでもわかるほどにはっきりしているのです。
そのため巨匠レベルの人は、作品の制作の大半をその様式を体得した他人にまかせてしまうことも可能なのです。あるいはその作品をコピーした作品、絵画の複製やラジオから流れる音楽や演劇の録画などを思い浮かべてください、そんなものでも、鑑賞する人を感動させてしまうことが出来るのです。その本質が鑑賞する人の脳内に発生するイリュージョンだからです。創造活動の主要部分はそれを鑑賞する人が自ら行っているのです。
このように芸術においては、技法と様式はなくてはならない重要な要素です。
ここで質問をしましょう。
では、芸術作品は技法と様式がすべてだと思いますか?」
「そうではないと思います。」
と私は答えた。
「そうですよね。
独自の様式を持った技法はあくまでも精神を伝えるための手段。作品の本質はどのような精神、どのような心を伝えるかという部分にあります。
では、作家が伝えようとする精神はどこから来るのでしょうか。
これは作家自身も知ってはいません。
だから、芸術作品の本質を知りたくて、その作者にインタビューしたところで、たいしたことは分からないのです。
作家が制作に集中し没頭していると、精神は自然に宿るのです。まるで霊媒みたいですね。私に宿った精神、それはユーモアの精神だったのではないかと思っています。
この現象が面白いから、人は創造活動を行うのです。
精神の世界とは、自分であって自分でない、それがどこから来るかも分からない。そんな不思議な世界です。
ただ、この精神が人に伝わるためには条件があります。

作品の制作者が精神を実感するということ。
作品に意識を向ける鑑賞する人がいるということ。
作品を鑑賞する人の脳内にイリュージョンを発生させる技法と様式があること。

この3つの条件が揃った時、作品を通して精神が伝わるという不思議な現象が起こるのです。
つまり、技術とは芸術の本質ではありませんが、その本質が伝わるための必須の条件なのです。
わかりますか?」
「よくわかります。」
「宗教や、降霊会のような儀式も原理はまったく同じなのです。
宗教が伝えようとしている本質、すなわち精神は人間の世界ではなく、人間より高い世界、神霊の世界であるということはおわかりですね。
そして、これを伝えるために必須の条件が、宗教の教義や戒律や儀式なのです。これが、芸術における技法に相当するのです。
宗教の教義はみなおとぎ話のような荒唐無稽な内容ですよね。これは、それを受け入れる人の脳内に現実の人間の世界ではない世界のイリュージョンを発生させるための技法だからなのです。
儀式も同じで、まざまな道具を使うことにより、教義と同様な世界を人間の脳内に発生させるための技法なのです。
戒律を守らせることは、世俗のことばかりに向きやすい人間の意識を教義の世界に集中させるための補助手段です。
そして宗教の持つこれらの要素を受け入れるということが一般に信仰と呼ばれている意識の働き、つまり信じるということです。
宗教は、はじめに神霊の世界や高い世界を経験した人々が、同じ経験を他の多くの人々にもさせるために編み出された文化なのです。
宗教を信仰する人は、教義や戒律や儀式を受け入れることにより、自分の脳内に高い世界のイリュージョンを発生させます。このイリュージョンに浸っているうちに、宗教の創始者が経験したのと同じ高い世界の精神が伝わるという現象が起こるのです。これが、宗教という文化の原理です。
高い世界の精神を経験した創始者、教義や戒律や儀式といったイリュージョンを発生させるための方法、そしてそれを信仰する人、という3つの条件が揃った時に高いの精神が伝わるという現象が起こるのです。
信じるものは救われるとは、うまい言い方ですよね。
つまり、芸術が扱うのは人間の精神、宗教が扱うのは人間を超えた世界の精神、この部分が異なるだけなのです。
それに、宗教と芸術は分離しているわけではありません。宗教の教義や儀式を構成する要素は皆作家達の創造したものです。それだから、その要素だけを取り出して芸術作品として鑑賞することも出来るのです。
いかがでしょうか。」
「とてもわかりやすいです。
つまり、降霊会の場合、霊媒の行う演技が、それを見ている人の脳内にイリュージョンを発生させるための道具なんですね。
そして人がこのイリュージョンに意識を集中させていると、本当に異世界の精神が伝わるということもあり得るわけですね。これを霊が降りると称しているわけだ。
ということは、宗教の教義や儀式の部分だけなら、人間の脳内に錯覚を作り出せる才能さえあれば、詐欺師でも誰でも作ることが可能と言うことになります。」
「そのとおりです。
そのため、古代インドでは、仏教の教義自体を完全に創作してしまうということが平然と行われました。大乗仏教以降のすべての仏典は後世の創作であることは、今では良く知られていますよね。
彼らは人を高い世界へ導こうとしてそれを創作したのです。そこが単なる詐欺師とは少し違うかも知れませんね。
もともとお釈迦様は、教義というものを川を渡る筏に譬えていました。それは此岸から彼岸に至るための手段なのです。川を渡ることが出来さえすればよいわけで、渡り終わればいらなくなるとさえ言っていました。それに、最も初期の頃の教義は心に関する理論だけが説かれており、宗教という形態をしてはいませんでした。真理を悟ることが目的だったので、そのためにイリュージョンは必須条件というわけではないのです。
超能力と呼ばれているものも宗教と同じ原理ですよ。
自然科学者はそれがトリックだから無いと主張します。しかし、本当は逆なのです。それがトリックだからこそあるのです。そのトリックの作り出すイリュージョンに心が乗ったとき、心が本来もっている能力が発現する瞬間があるのです。」
「なるほど!」

せっかく太宰治がいるのだから、私は他のことも質問してみようと考えた。
「ところで、あの霊媒は私の友人で、アルチュール・ランボーとも交信していると主張していたのです。そしてランボーの本質は、個の自由を確立することだったといい、そのためには自由な創造活動、自由な真実の探求、自力でお金を稼ぐこと、この3つを実現すれよいと考え、それを目指したというのです。しかし、この3つは互いに矛盾しているため、実現させることは出来ずに悲劇的生涯を送ったのだというのです。
あなたは、どう思いますか?」
「とてもすばらしい見解ですね。
ランボーが個の自由に憧れていたことは確かだと思います。
あなたの友人がランボーと交信していたかどうかはともかくとして、個の自由はこれからの時代を生きる人にとって重要な課題となることでしょう。
私の愛読していた旧約聖書にはこんな神の呪いが説かれていました。
"男よ、塵から作られたおまえは、一生涯パンを得るため額に汗して働く。塵に返るまで。"
この呪いはすべての男の深層意識にある苦痛をみごとに表現しています。この呪いを楽しいと思う男は一人もいないのです。
この呪いをどのように受け止め、どのように跳ね返していくか、すべての問題はここに集約されるのです。
お金儲けが出来ていたとしても、そのことのために自分の時間の大半が使われているとしたら、それはこの呪いの支配下にある状態であり、自由とは言えないわけです。
そこで、自分の好きなことをやって生きたいとか、創造活動や好きな研究に没頭したい、という人々は大勢いると思います。しかし、そのような人生を実現していくために必要なお金はどうするのか、お金を得るために自分自身を偽って世の中の需要に合わせていくしかないのか、という問題で悩んでいる人々も少なからず存在するのではないでしょうか。私もそのことで悩んでいましたよ。自分にふさわしい名誉が得られれば解決すると思い、芥川賞が欲しいと選考委員に密かに懇願したりもしました。人間社会が勝手に作った賞なのにねえ。
しかしながら、この呪いの重みは背負った方がいいんです。
生きることの痛みと自由には深い関係があります。
人が何の不自由もない状態に置かれたら、真の創造性を培うことも、新しい知識を切り開いていくことも出来ないでしょう。
これらは自由が制限された状況の中から生まれてくるのです。
知恵を使って新しいものを創造し、偶然の与えてくれるひらめきの中から真実を一つでも明らかにしていく、そんな努力の果てに獲得される自由こそ、真の人間的自由ではないですか。」
「そのとおりですね。 人間が自由に生きるということの意味は、よく考えてみるととても難しい。 それは、あの霊媒師が言うようにバランスなのでしょうか。」
「創造活動と真実の探求とお金を稼ぐこと、この3つが互いに矛盾するかどうかについて、私なりに丁寧に説明しましょう。
表面的には矛盾しています。しかしこれらの本質を掘り下げて考えれば、これらは同じ原理によって成り立っているのです。
まず創造活動では、自分の空想や妄想や思いをめいっぱい広げていこうとします。しかし、真実の探求は逆で、空想や妄想や思い込みを徹底的に排除し、そこに現れるものを捉えなければならない。これが矛盾していると考えるわけですね。

しかし、よくよく考えてみてください。
例えば天才的な自然科学者たちの業績。
地動説を主張したコペルニクスやガリレオ、当時は激しく反対され、宗教まで巻き込む大論争になってしまったことは良く知られていますね。
大陸移動説を唱えたウェーゲナー、発表当時はなかなか受け入れられませんでした。
相対性理論を唱えたアインシュタイン、時空のゆがみなんて発表当時は誰も理解しませんでした。
かれらは他人は知らない自分独自の空想をめいっぱい広げて真実を探求したからこそ、新しい知識を切り開いていくことができたのです。

逆に創造活動では、その表現するところが万物に共通する真実というものをしっかりと捉えていなければ、決して普遍的表現として世界に広がることはありません。それが無ければ、それこそ単なる妄想で終わってしまいます。私が小説の中で追求していたのは、人間の苦悩というテーマでした。これは自分の問題であると同時に人間存在における普遍的問題であると確信していたからです。真実を知ろうとする努力を怠らないこと、これはとても大事ですよ。私は、自分の作品の中で、真実を知るための勉学が大事なことをくり返し表現しています。創造活動は単なる空想ではないからです。

創造活動でも真実の探求でも、自己の空想を自由に広げることと、あるがままの真実を捉えること、この2つが同時に必要であるという点では同じなのです。

真実はその対象が何であれ、必ず必要とされます。必ず誰かが必要としています。なぜなら本当のことだから。つまり必ず需要があるということです。ここに商売との接点があります。ただ、大抵の場合、そのままでは何の役にも立ちません。それを役立つように加工してあげる必要があります。ここで創造力というものが発揮されるのです。

では商売について考えましょう。
ここでは、対価を得る行いすべてを商売と定義します。
モノやサービスだけでなく、自分の時間を売ったり、労働を売ったり、才能を売ったり、夢を売ったり、人の世の需要を満たすものなら何でも商売になりますよね。
需要に答えることが商売が成り立つための条件です。需要に答えるためには、その与えるものが嘘ではなく本当である必要があります。嘘であったら二度と対価を払ってはもらえません。そして、この本当であるとは何かということを追求するのが真実の探求なのです。
どんな商売でも売り込む相手は人間です。そのため、人間を理解し、人の心を動かすための方法を知る必要があります。これは芸術における脳内イリュージョンを作り出すための技法と原理はまったく同じなのです。作家は自分自身を売り物にしているんですよ。自己紹介そのものから対価を得ようとしているようなものです。特に私はその指向が強かった。だから私小説作家なんて呼ばれていましたね。自己紹介文が読む人の心を捉えれば、実際に対価が得られるのですから。
このように、商売においても真実の探求と、創造力は必要不可欠な力なのです。

結論を述べましょう。
人間は誰だって、創造者であり、真実の探求者であり、商売人なのです。
分業化が極端に進んだ社会が、これをゆがめているだけなのです。
太古の昔を想像してみてください。そこには芸術家だの研究者だの商売専門の人などいなかったことでしょう。誰もが芸術家であり、研究者であり、商売人だったからです。それらの事を教える呪術師はいたかも知れませんけどね。
ランボーは決して特殊な生き方を追求したわけではなく、人間の自然なあり方を追求したのです。」
「では、創造力というものを開発したものは、真実を見つけることにも、お金を稼ぐことにも長けているということなんですね。
しかし、どこに一番価値を置くかは人それぞれなんでしょうね。天才的素質を持ちながらも、お金には興味がないという人もいることでしょう。」
「どのような生き方を選ぶか、それを決定するのはその人自身の業によります。
どのような生き方を選ぶにせよ、その人は創造する力、真実を探求する力、商売をする力すべてを備えているのです。これらは当たり前の力だからです。
あなたは、自分が作家だった場合、商売なんて出来ない、それは商売をする専門の人に任せるべきだなんて思いますか。だとしたら、それは現代の社会に洗脳された状態なのですよ。私自身もそうでした。先ほども述べたように、芥川賞などという他人が金儲けのために作ったちっぽけなシステムに依存することしか考えられませんでした。私は小説の中でこそ、人の心を動かす技術を知っていました。それをそのまま違う商売にも転換することだって出来たのです。専門の商売人には決して出来ない斬新な売り込みが出来たことでしょう。何も小説家という立場にこだわる必要もなかったのです。文学界などというところに頭を下げ続ける必要もなかったのです。みんな社会が勝手に作った概念ではないですか。そんなものに縛られて自分は何であるなどと決めつけずに、一個の人間として生きればよいのです。なのに、私は出版社だけを命綱にしていて、私の作品を否定した選考委員の川端康成を呪詛する投稿なんかしていました。醜態を見せ続けるだけの人生だったようです。
他に頼らず自分の力で生きる。これが人間本来のあり方です。そこに挑戦したランボーは勇敢だったと思います。

今は恵まれていますねえ。世界に向かって自分を表現できる媒体がいくらでもあるではないですか。逆に恵まれていすぎるのが足かせになっているのかも知れませんね。みんなが同じ事をするから。そんな状況では、誰とも異なるしっかりとした個を確立する人が必ず有利になります。自己自身を徹底的に掘り下げていけばよいのです。ランボーが果たせなかった悲願を堂々と果たす人がいくらでも現れるべきです。もっとも、敗北者でしかない私がこんなことを言っても説得力は無いかも知れませんが。

あのお釈迦様だって立派な商売人だったのですよ。
われらにお布施をすれば、最高の功徳を積むことになり、膨大な幸福となって返ってくるであろう、といって堂々と対価に相当するものを人々に要求していたのです。存在するだけで、人々に幸福という夢を与え、その見返りを得て生活したのです。誰にも頼ってなんかいません。

これまで、脳内イリュージョンという言葉が何度も登場しましたね。これを夢という言葉に置き換えてもいいんです。
どんなささやかなことでも、1つでも2つでも真実というものを発見したら、それを役に立つようなものに加工して、それに夢の翼を与えて世の中に放ってあげる。真実は必ず需要があるからです。夢は必ず人々の心を動かします。それゆえ、きっと対価を持って帰ってきてくれます。これをくり返すだけでよいのです。
もっと端的に言いましょう。創造力の本質は、世界を知り世界を自在に変えていく呪術なんです。
自分が創造するものを、他人が鑑賞するための作品と考えるような観念を打ち破ってください。所有という観念も捨ててください。お金は誰のものでもありません。
本当の創造活動は世界を変えていきます。万象を貫く真実をしっかりと捉えればそれが可能となります。必要なものはすべて後からついてきます。
自分が創造したものを世界に向かってたたきつけるだけでいい。世界がそれに反応するのです。先ほど説明したことと矛盾するように聞こえるかもしれませんが、個々の人に見せる必要さえないんです。なぜなら脳というものは人間の頭蓋骨の中にあるものだけではありません。この宇宙全体も脳なのです。宇宙そのものにイリュージョンを発生させるのです。精神は全宇宙に伝わります。そして太鼓をたたけば音を返してくれるように、世界がそれに何らかの答えを返してくれるのです。
難しいと思いますか?」
「言わんとすることはなんとなく分かります。私も何かに頼ることばかり求めるのは厭になってきました。ただ、具体的に何をすべきかは今すぐには見えません。」
「そうでしょうね。
具体的な事が見えないのはまだ自己が弱いことを表しています。
その場合は、毎日30分でも1時間でも時間をとって自分の心を観察することによって自己を確立していくことが出来ますよ。
自分で自分の心を観察する、これはどこまでも掘り下げていくことが可能なのです。
クリスチャンたちは神に懺悔をします。
昔の日本人は神の前に向かっても恥じない真の心を日々追究しました。
これらは、心によって心を観察する作業なのです。
この作業を続ければ必ず自分が今なにをすべきかが見えてくるはずです。
ただ、キリスト教のような一神教には、教義にある限界が設定されているのです。
自分がいて他人がいて、広大な宇宙があり、すべてを支配する神がいる。このような概念を超えることを許しません。
私の場合、幼い頃から自分の心の奥がいつも見えていました。
自分と他人を比べ、自我意識というものが存在するが故の苦悩に、いつもつきまとわれていました。
本当は、ギリシャ神話的な健康で明るい心に憧れていました。
しかし、ここに自分がいるのだという意識がある限り、必ずこの苦悩は重くのしかかるのです。それを超えることは出来ませんでした。
ここから逃れる術は無かったのです。懺悔をしても何をしても無駄でした。
いつでも目の前にあるので、逃げることも出来ません。
酒を飲んで、わずかの間でも忘れようとすることくらいしか出来なかったのです。
しかし、インドを中心とした東洋の瞑想文化には心を掘り下げ、自他の区別を超え、神という概念さえも超えていく道がはっきり示されていたのです。この道は宇宙を一握の砂に変えてしまうのです。
私もそのことには気がつかず、聖書を秘かに心のよりどころとしていたのです。
聖書が間違いだとは思いませんが、限界があるのです。
エジプトや中東には、真の瞑想文化は無かったのだと思います。
私が東洋の叡智にもっと深く触れていれば、情死などという運命は絶対に選択しなかったと思います。
自己の心を観察し、そこにどんな自我意識が現れたとしても、それを自分ではないのだと見なしてください。それだけでよいのです。
これこそが自分なのだ、と思うすべての意識は自分ではありません。それは現れては消えていくただの現象です。
それをただひたすら観察し続けることが自我意識を超えていく道です。
自己を観察し続ける瞑想こそは、個が飛躍していくための絶対条件です。
人は誰でも完璧な心を持って生まれてくるわけではありません。何らかの痛みと偏向を持っているのです。
だから自分の心の深層に触れたら、きっと苦しいでしょう。孤独でしょうね。
けれど、あえて自己の苦悩を掘り下げる道を歩むのが正しい瞑想だと思います。
私はいつでもそんな道を選択する人たちの味方です。
心を追い求め、心に愛着すべきではありません。
心に愛着したら、私のように敗北の道を歩むことになるでしょう。私はそのことを身をもって示せただけでも良かったと思っています。

・・・・
長々とつまらぬ話しをしてしまいました。」
「そんなことはありませんよ。
あなたの話しを聞いているうちに、今までもやもやとしていた色々な事がクリアになってきました。
私も東洋の叡智にはとても興味があるのです。
あなたの話しを聞けてとてもよかったです。」
「そうですか。
あなたと会って、長々と話しをした甲斐がありました。」

「私は、人を喜ばせることが何よりも好きなのです。」
そう言って、太宰治の幻夢は消えていった。


了 2018/01/08




電子マーケット