太陽 ENGINET | 七福神蓄財倶楽部 月

私が見た、夢でもなく現実でもない世界

第9話 回転木馬


作者 目次


回転木馬

私はネクタイを締めスーツ姿で机に向かいパソコンを打っている。どうやら其処は会社のオフィスらしい。
無論私はサラリーマンなど、経験した事は無かったから、何処かしっくりせず奇妙な感じではあった。
しかし私は周りをデスクに囲まれパソコンの画面と睨めっこをしながら何かのグラフを作成していた。
ふと横を向くそこには私の机とは向きが違ってオフィス全体を見通せる位置にいる大きな椅子に座る女性だった。
その女性が私の上司である事は一瞬で理解できた。
年の頃は30代半ばくらいに見える。
如何にも頭の良さそうな聡明な顔立ちで、赤縁のメガネをしていた。
しばらく仕事していると、周りにいたサラリーマンらしき人達が自分の席を立ちオフィスから出て行き、残されたのは私と女上司の二人きりになった。
私も仕事が終わったのでパソコンを閉じて席を立ち帰る支度をしていたが、その女上司らしき者から声がかかった。
「あら、貴方もう帰るの?」
「はい、仕事が終わったので帰ります。」
「ちょっとアンタ今日は私に少し付き合いなさいよー」
私は断る理由も無かったので「 はい! 」と二つ返事でその女の誘いを了承した。
二人で会社を出てると目の前が駅だった。
私達は停車していた電車に飛び乗り空いていた座席に座った。
電車が動きだすと、直ぐに女は自分のバックから化粧品を取り出し、真っ赤な口紅をくちびるに塗りつけて、突然着ていた服を脱ぎ捨てた。
車内には私と女しか載っていなかったから周りの視線を気にせずに女は下着姿になり、バッグから派手な服を取りだし着替えた。
まるで水商売の女の様だ。
次の駅で我々は下車したが、改札口を出ると其処は煌びやかな繁華街だった。
女上司は人混みの中を早足で歩きだし、繁華街を抜けるとホテル街らしき場所に辿りついた。
すると、其処にぽつんとお稲荷様が祀られてる鳥居があった。
女は鳥居に手を合わせ何やら呟いている。
私は後ろから女を見ていたが、祈りが終わり振り返った女の顔は豹の顔に変わっていた。そして女は道端に立ち.通りすがりの男を呼び止め
「ねえ、お兄さん、私とちょっと遊んでいかない?」
と声をかけている
私はその時はじめて女に声をかけた。
「いったい何をしてるの?」
女は一言「バランスを取る為よ」と言って、次々に見知らぬ通りすがりの男に声をかけている。
言うことはなんとなくわかるが、なぜ顔が豹になっているんだ?
「なぜ、豹の顔になったの?」
と再び質問した。
「アンタこそ、なんで狸の顔になったのよ?」
ええっ!オレの姿はいつのまにか狸になっていたのか!
気がつけば狸になっていた。
サラリーマンの世界では不思議なことではなく、ごく当たり前にあることらしい。
気がつけばネズミになっていたとか、朝起きたらセンザンコウになっていたとか、この前飲み屋で知り合ったサラリーマンは、気がつけば「ぬらりひょん」という妖怪になっていたという体験談を語っていた。
気がつけば狸。
豹と狸なんてまるで似合わない、我ながら滑稽な組み合わせだ。
いや、まてよ、狸ということは、いっしょにいたら豹に食われる運命にあるということではないか。
危険だ。アブナイ!気がつかれないように逃げだそう。
私は忍び足でその場を立ち去ると、全力で走り出した。
しばらく走ってから、後ろを見ると、豹が猛然とした勢いで追いかけてくる。
しまった、気付かれたか!
私はとっさに、柵をよじ登って無人の夜の遊園地の中に逃げ込んだ。
どこかに隠れよう!と強く念じた瞬間、私は狸の姿をした回転木馬の駒となっていた。
メリーゴーランドのスイッチが入って照明がともり、回転木馬が回りだした。
狸の木馬となった私が後ろを見ると、いつのまにか豹の木馬が一つ後ろにあり、私を追いかけていた。私は、体を上下に動かしながら、同じ場所を回り続けるだけだった。それ以外に自由に体を動かすことは一切できなかった。後ろにいる豹の木馬も同じらしい。豹に食われる心配は無くなったが、自由が無くなってしまったのだ。
狸の木馬となり、身動きの取れなくなった私は、同じ場所を回り続けながら色々な事を考えてみることしか出来なかった。

このまま死ぬまで、同じ場所を回り続けるのか。なんでこんなことになってしまったのだろう。
いったい現代社会って何なんだ。この社会に適応することに何の意味があるんだ?。
経済活動に参加し、誰かの金儲けのためにまじめに働いて、それ以外の余計なことを考えることさえしなければ何の文句も言われない。まともな人間だと見なされるのだ。本当は異常なのに。
経済活動が盛んになることだけがすべてであり、政治や行政はそれにどれほど寄与したかによって評価され、教育、学問研究、芸術、宗教でさえもそれが誰かの金儲けのために役立つかどうかだけによって評価されるのである。
現代美術は投機の対象であり、美というものに興味が持たれているわけでもない。美術だけではない、スポーツ・芸能・音楽はもとより、人間の文化すべて、過去の遺産でさえも興行収益を得るための見世物として存続しているのだ。
国際政治なんていうのも同じようなこと。莫大な金を持っている人々がそれをどう使って増やそうかという意向に従って決定されているのだろう。
しかし、現代人はこの世界に喜んで適応しようとする。豊かな人生が得られると考えて。
経済活動を盛んにするほど、全体のお金はより多くを所有している人々のもとに吹きだまっていくだけなのに。

ただ生きることだけを考え、目前の刺激に反応することをくり返すだけの道を選び、まるで文明社会によって飼い慣らされたただの動物みたいに、何も分からずに生きて死んでいく。そんな大多数を占める人々の意向に適った価値観やルールによって社会が作られ、それに適応しながら生きるためのレールから一歩でもはずれると、社会からただひたすら疎外されていく運命が待っているのだ。
より多くを所有している人たちにとって、こんな社会はとても都合がいいことだろう。予測可能な社会だからだ。それは、人間が動物を観察してその行動を予測するのと同じ原理なんだ。
レールからはずれないで生きることは回転木馬の駒になること。誰かの金儲けに役立つためのマニュアル化された上下運動をくり返すだけ。サラリーマンとしての私はまちがいなくこの道を選んだのだ。
サラリーマンだけじゃない、自営業者や零細企業だって似たようなもの。彼らは大企業が作り出す流れに乗って、そこにビザのトッピングみたいに自分の個性を乗っけてどうにか存続している。皆、回転木馬の駒なんだ。
回転木馬の駒になるか、社会から疎外されるか、本当にこの2つの選択肢しか無いんだろか?

サラリーマンや公務員たちは毎朝電車にすしのように詰め込まれて都会に向かう。この奇妙な光景は50年以上も前から存在し、未だにほとんど変わらず、最近では夕刻にも同じ現象が発生するのだ。
家畜が輸送されるときだってこんな扱いは受けないだろう。しかも、彼らはこのような扱いを受けながらそれに対してお金を払わされているのである。普通の人間社会だったらこんなことがいつまでも続いたら、"暴動"、"打ちこわし"、"焼き打ち"などが起きて当然なのではないだろうか。しかし彼らは文句一つ言わず、当然のことのように、仕方ないことのように何十年間もこれを受け入れ続けている。これこそは、戦後日本の民主主義教育の絶大なる成果なのだろう。

民主主義教育とは模範的なサラリーマンや公務員を作るための教育のようだ。少なくとも日本ではそうだった。
天才のひらめきや、英雄の力、徳を積む思想や、年季の入った職人技の冴えや、神通力や、道を悟ることや、およそ人間の持つ優れた要素、人間の持つ偉大な部分はサラリーマンには一切必要とされない、むしろこれらを持つことは有害無益とされているのだ。
なぜなら、代替可能な能力ではないから。
その人がいなくなってもすぐに代わりの人を入れることによって存続可能なシステム。これが現代社会の条件なのだ。
自力で稼ぐ力や、自分でものごとを考える力や、自ら創造していく力、運命を作り上げていく力、世界を変えていく力、このような能力を幼いうちに根こそぎ摘み取り、教えられたルールを正確に守り、マニュアル化された誰かの金儲けに役立つ作業をくり返すことによってしか生きることの出来ない人間を作るための教育だったんだ。
そんな教育を行うのは教育機関だけではない、マスメディア、親兄弟、友人、すべてが一丸となって、この日本に生まれてきた人に対してなすのである。
"みんなで仲良く馬鹿になろうね。馬鹿になって何も分からずに生きて何も分からずに死んでいこう。それが人間らしい生き方なんだよ。"こんな思想が、この日本に生まれた人すべてに対して、あらゆる方法によって吹き込まれていく。
それはまるで、本来は大きくなる松の木を幼い頃から剪定しながら育てて小さな盆栽にするような教育だ。剪定されていくのは、人間の本来持っているあらゆる偉大な要素なのだ。
こうして、誰もが考えることしか考えられない、ごく普通のまともな人間が出来るのだろう。
このようにして大人になった人たちが、政治をやったり行政に携わったり、企業の役員になったりしていくのだから、ガラクタみたいな文化しか生まれないのは当然のことだったんだ。

民主主義の本質なんてこんなもの。本当は多かれ少なかれ誰もが内心そう思っているのではないだろか。
そういえば、私の父も「民主主義などという愚かな体制に参加しているところを人に見られるのは恥ずかしい。」といって、投票所に一度も行かなかった。
しかし誰も民主主義を否定することはしないだろうな。
なぜなら、「ではあなたはどんな体制が正しいと考えるのですか」と聞かれても答えられないからだ。
それに体制を批判したところで意味はない、問題は今この木馬からどうしたら解放されるかということだ。

小説「変身」で、朝起きたら大きな虫になっていたサラリーマンの運命を描いたフランツ・カフカ。
小説「異邦人」で、なんとなく殺人を犯す人を描き、法廷でその動機を太陽が眩しかったからと語らせたアルベール・カミュ。
彼らは天才だったなあ。現代社会のレールに従う人と、そこからはずれる人、2種類の人間の運命を見事に予言している。「現実は芸術を模倣する」という言葉のとおりだ。
レールに従ってもレールから離れても、自由はない。
そうか!どちらも現代社会によってなされる洗脳の犠牲者だったんだ。
社会によって洗脳された人とは要するに普通の人間なのだ。普通の人間が社会に適応してレールの上を生きれば、まともな人と言われる。普通の人間が社会から疎外され、その不安定がある程度持続すると、そこから逃れて自己の存在を確かめるため意味不明の犯罪でも行わずにはいられなくなってしまうのだ。
人間は社会によって作られる生き物である。生まれた体制によって洗脳されるのは逃れようのないこと。しかし、次は社会から独立していかなければならないんだ。
普通の人間であるということは未だ人間として未熟な状態なのだ。
生まれつき普通で無い優れた人は、幼いころから社会によってなされる洗脳を跳ね返す努力をしているに違いない。
社会からの独立とは自らものを考え、自ら創造し、自ら人生を切り開いていくということを意味する。自分自身に帰るものが、人間本来の力を取り戻すのだ。
本当の教育ってなんなのだろう。それは、人が人間社会から堂々と独立していくことを手助けすることではないのだろうか。しかし、教育者自身が独立していないのだから、それも難しいのだろう。

新しいテクノロジーの波がマニュアル化社会を脅かしている。マニュアル化可能なすべての仕事は人工知能やロボットによって代替されるのだ。
最初に管理職が人工知能に置き換わっていくのではないか。管理職は人間の持つ偉大な能力など必要ないし、人工知能だったら公平で、身体の管理からメンタルケアまで至れり尽くせりでやってくれるので、管理される一般社員も大いに喜ぶことだろう。しかし、その喜びもつかの間、今度は一般社員がいっせいにロボットに代替されるのだ。
サラリーマンたちはどこへ行くのかな。少なくとも今みたいな人数は必要としない。この流れは少子高齢化が進む現実ともよくマッチしている。
今のサラリーマンは、人間社会がロボットと共生する社会へと移行する過程に発生した疑似ロボットなのかも知れない。
本格的ロボットを生み出すための、単なる実験材料でもあるのだ。
必ず不要になる。
いらなくなったサラリーマンはもっと文化的で創造的な仕事へと移行されるかな。
しかし、企業に文化の創造は出来ないだろう。
創造活動はすぐれた個人によってなされる。
これから、偉大な個人が台頭し、企業が個人にかしづく時代がやってくるのかも知れない。
個を確立した人間が新しい時代を創る。
自分にしか出来ないこととは何か、この課題を明らかにしていく人間が時代をリードしていくのだ。
人工知能だけでなく、インターネットテクノロジー、暗号通貨、スマートコントラクト、あらゆるテクノロジーと制度改革の波が個を確立しようとする人間に有利に働いている。

結論は見えてきた。
自己自身に帰ろう。自分自身になろう。自己を明らかにしよう。
そう決意した瞬間、私は、木馬の駒であった自分から解放されて、人の姿をした自分に戻っていた。
あの女上司は今でも木馬のままでいる。夜になったら派手な娼婦になる夢を見ながら、同じ事を続けるのだろう。
それは彼女自身が自己自身に帰らなければならないことに気がつくまで続くのだ。
私に出来ることがあるとすれば、彼女が自己自身に帰るというその手助けをすることだけである。


了 2018/01/03




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