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私が見た、夢でもなく現実でもない世界

第8話 法華問答


作者 目次


法華問答

其れはオレンジ色の空に包まれた薄暗い夕暮れ時、真っ直ぐに伸びた道の両側には無数の出店が並んでる。
どうやら何処のお祭りらしい。
私は人混みを掻き分けながら目的も無く真っ直ぐに歩いてる。
すると後ろからデカイ万灯や提灯を持って大きな声で「 南無妙法蓮華経 」と唱えながら歩く集団がやってきた。どうやら法華経の祭りらしい。
集団は私を追い越してゆき、私は集団の後ろに並んで歩いた。
しばらく歩いていると目の前巨大な石畳みの階段が現れた。
いやに急な階段だったが、その集団は早足で階段を登り始めた。
私も息を切らせながらその集団の後に続いた。
私が階段の真ん中辺りまできた時だった。
いきなり上から人が転げ落ちて来た。
次から次へと何人もの人間が「南無妙法華経」と叫びながら階段の一番下まで転がっていく。
私は急に怖くなったが、構わず階段を登り続けた。
登り続けてる間にも、何人もの人間が転げ落ちて行き提灯や万灯が宙を舞った。
やっと階段の上までたどり着いた時だった。
少し目の前に寺の本堂に続く大きな門が現れ、門の前には身の丈2メートルはあろうかといった大きな老人が立っていた。
そして集団は「南無妙方蓮華経」 叫びながら門を潜り抜けようとするが、何人かは二人の大きな老人に捕まり、
「 お前はまだ信心がたりない!」
と言われ蹴り飛ばされ階段の下へと転がっていった。
私は怖くなり階段の下へ引き返そうと思ったが後ろから来た人達に押され、大男の前までやってきた。
私は覚悟を決めて門を潜り抜けた。
一瞬、その大男と目が合ったが、その大男は何も言わずに、私は簡単に門を潜り抜けた。私の後ろにいた派手な衣装を着た夫人は大男に捕らえられ、首根っこを掴まれて蹴り飛ばされた。
蹴り飛ばされいく人々をよく見ると、皆見覚えのある人たちであった。
私が良く知っている創価学会の会員ばかりだった。
どうやら、「南無妙方蓮華経」を唱えながら、地位や名誉や金を得ることばかり考えている人たちが蹴飛ばされているらしい。
普段いくら「南無妙法華経」を一生懸命唱えていても、現世利益のことばかり念じているのは信心とは見なされないようであった。

最初の門をくぐり抜けると視界が一気に開け、上方には雲一つ無い青空が広がっていた。しばらく歩くと再び前方にもっと大きな門と赤い塔が見えた。
行列の人数は大きく減っていたが、なかなか前に進まないようであった。
よく見ると、仁王みたいな姿をした大男二人が門の前に陣取り、門を通ろうとする人に問答をしているようだ。
仁王みたいな男に「おまえの法華経に対する見解を述べよ」と大きな声で質問を受けている。
質問された人は何かを答えているようだが、答え終わらないうちに、仁王はいきなりその人を殴り飛ばしていた。
第二の難所だ。どうしたらここを通り抜けられるのだろう。
そうだ!どのような人がここを通る事が出来るのかしばらく観察してみよう。
私はそう考えて行列からはずれて仁王を観察しはじめた。
仁王の質問に対してとても立派な見解を述べる人もいる。学識ある見解を述べる人もいる。
しかし、仁王はどんな見解を述べる人に対しても、見解を述べ終わらないうちに無言でいきなりストレートパンチを食らわしていた。
誰彼の区別なく殴り飛ばしているようにしか見えなかった。
いったいどんな見解を述べればいいというのか。
私はまた不安になり、なにを言おうかと逡巡した。
ふと、仁王の方を見ると、質問されても何も語らず合掌礼拝だけをする人がいた。
仁王はその人に対しては殴らずにそのまま門を通したのである。
そうか!なんらかの思想や考えを述べても意味が無いのだ。信仰の本質は頭が作り出す概念ではない。
私はそう気がついて、自分の気がついたことを試してみようと考えた。
私は再び列に加わり、殴り飛ばされている前の人に続いて仁王の前に出た。
「おまえの法華経に対する見解を述べよ。」
仁王は叫んだ。
私は恐怖を抑えながら、合掌して「南無妙法蓮華経」とだけ言った。
すると、仁王は私を殴ることなく門を通してくれたのだった。
やはりそうだったのだ!私は安堵の思いで第二の門をくぐった。

第二の門を抜けると、もう行列は無かった。ほとんど人はいない。
しかし、数人の人がこちらにUターンしてとぼとぼと戻ってきているではないか。
その中には合掌礼拝だけをして第二の門を通過出来た人もいた。
私は尋ねてみた。
「どうして戻ってくるんですか?」
「いや、あれは無理ですよ。いくらなんでも。」
そう答えて戻っていくのだった。
いったい何が待っているのだろうか。私は再び不安になった。
私がまっすぐ歩いて行くと、やがて大きな穴のようなものが見えた。
近づいて見ると、それは長さも幅も10メートル以上はある大きな穴で、道を完全に塞いでいた。
穴の中を見てみるとこれも深さは10メートル以上はありそうだった。
しかも、穴の底には針のような鋭くて長い剣が無数に埋め込まれていたのだ。
他に通り道は全くなかった。この穴を飛び越えない限り先へは進めないのだ。
死ねと言っているのと同じではないか。
いったいどうしたらよいのか。
しかし私はすぐに気がついた。これは幻夢なんだ。現実ではない。
これまで、蹴られたり殴られたりしている人でも死んでいる人はいなかった。
現実だったら、あんな大男に蹴られたり殴られたりしたら死んでしまうだろう。
これは現実ではないのだ。
私は考えてみた。
第一の門は現実に対する欲望を捨てることが条件であった。
第二の門は自分の価値観や思想を捨てることが条件であった。
さらに捨てるものがあるとすれば、それは自分の命への愛着しかないではないか。
命を捨てることが第三の関門なんだ。
せっかくここまできたのに、戻ってしまうのはあまりにももったいない。
これは幻夢であり現実ではない、多少の痛みはあるかも知れないが実際に死ぬわけではない。
私は自分に言い聞かせて、この第三の関門を試してやろうと決意した。
私は全身を広げて穴へ飛び込み、針の山へと落下した。
鋭い剣の先端が目の前に迫っていた。
次の瞬間に私は気を失っていた。

気がつくと、大きな寺院の中に私はいた。
広々とした畳敷きの向こうに大きな祭壇があり、その前に豪華絢爛たる仏具が所狭しと並んでいた。
高い天井からは、金色に輝く巨大で豪華な傘蓋や錦織の旗が幾つも吊されていた。
威厳のある顔つきをした僧侶が目の前に立って言った。
「よくぞここまで来た」
私はだまって合掌した。
「法華経の本質は思想ではなく、実践である。
法華経は、悟りを得た人が誓願を立てて三千大千世界を股にかけて輪廻をくり返し、三千大千世界を自己の善業で飽和させてしまうことを目的とした実践なのだ。
悟りとは言説不可得なる自己を知ること。
自己を知った者は輪廻を超越する。そして輪廻の世界に自在者として復帰する。 自己は存在するものの部類には入らない。存在を終わらせることと、説明不能な自在者となることは同一なのである。
三千大千世界におけるいかなる生き物よりも貪欲に自己の幸福を求め続けることが如来の業である。
それは自己のために奉仕し、自己のために生きることを意味する。
それ故、自己のために生きようと決意した人は仏と同じ業を実践する人であり自ずと法華経の世界に入っていく。
法華経は如来になることが終着点である言われているがまったくの大嘘である。
如来になっても何も終わらないのである。言説不可得の世界は表現不能であり定義もできない、理解する対象ではないのだ。
法華経は最高の広大無辺なる教えであると言われているがこれもまったくの大嘘である。法華経は広大無辺な仏法のほんのわずかな一部でしかない。
それはただの装飾である。
自己のために生る者の世界を単に言葉で飾り立てているだけの内容なのだ。
如来や法華経はすげえ!すげえ!と、始めから終わりまでそう言っているだけなのである。
真実は何も語ってはいない。」
僧侶はそう語り終わると、踵を返して歩き出した。

「ついてくるがよい。おまえに法華経の世界を見せてやろう。」
私は僧侶の後をついていった。
僧侶は禅堂へと私を案内した。
「ここで法華経行者たちの集う天界を見ることができる。
法華経行者は天界での生を楽しむことが目的ではない。
しかし、善業によって天界に生まれてしまう。
そこで法華経の行者は天界で誓願を立てて子宮を思念し、人間世界に生まれ変わるのである。
その光景を見せてやろう。ここでは映画のコマを早回ししたように行者の人間世界での一生を瞬間的に見ることができる。」 僧侶がそう言うと、暗い禅堂の中に丸い輪の世界が広がり、そこに法華経行者の天界らしき世界が見えた。
神の姿をしたある法華経行者が誓願を立てていた。
「私は、必ずや奴隷の境遇に生まれ、一生涯他人に奉仕しよう。」
すると、しばらくして天界から姿を消し、日本のサラリーマンの家に生まれ変わったようである。彼は成長すると、ブラック企業に就職し、少ない給料で休日もほとんど無く、朝から夜遅くまで働かされる毎日を送った。定年退職した後はわずかな年金で細々と暮らしていた。そして晩年は誰に相手にされることもなく孤独のうちに、自分の境涯に満足しながら死を迎えたのである。天界に戻ってきたときは前よりもずっとパワーアップして強大な福徳を獲得していた。
またある法華経行者は次のような誓願を立てていた。
「私は、1日に1個の果実と一つかみの野菜だけを食べ、年老いた人々の介護をせん。」
その神は人間世界に小柄な女性として生まれ、成人してからは介護士となった。一日に果物1個と野菜をミキサーにかけたジュースを一杯飲むだけで、朝から晩まで超人的に働いて老人たちの面倒を見ていたが、疲れる様子も無かった。老人ホームの火災に巻き込まれて死ぬという最後であったが、死ぬ直前まで老人たちを助けるために奮闘していた。天界に帰ってくると前よりもいっそう光輝いていたのである。
またある法華経行者は次のような誓願を立てていた。
「私は、鬱病の苦しみを味わい、悟りを開くであろう。」
その神が人間界に生まれると、富貴な家柄であり強健な身体と才能に恵まれた青年に育った。人望厚く若くして政治家を目指し、富と権勢を獲得し将来の大統領の地位も嘱望されたが途中で鬱病を発症してリタイアし、そのまま一人で引きこもってしまった。何十年も鬱病に悩まされた後、瞑想に専念してついに悟りを開いた。最後は断食をして命を絶った。天界に戻ってきたがあっという間に天界を飛び越えて飛んで行ってしまった。何処へ行ったのかはわからない。

「人間世界は、どんな時代にもその時代特有の苦悩がある。法華経行者はそんな人の世の苦悩を一身に背負いたくて人間世界を目指すのだ。
苦とはあるものであってないものではない。苦こそは唯一の真実であり、唯一のリアリティである。それ故に苦を理解するものがすべてを理解する。人間世界にはこれを経験する機会がふんだんにあるのだ。

幸福とは過ぎ去っていく夢である。あってないようなものであるが、人は永遠にこれを求める。
苦しみとは夢ではなく現実である。あるという事柄のすべてを表す。
自己とは苦しみの入り込まない世界をいう。あるという事柄が終わった世界である。
この三者の絶妙なる関係の中にこそすべての真実があるのだ。

幸福という夢は善業によって作られる。
善業とは苦という現実を背負ってあげることにより他に幸福という夢を与える営みを表す。
自己のために生きるとは苦に汚染されない世界を表現することをいう。
どうすればそれが表現出来るのであろうか。
自ら苦という現実を背負うことが、まさしくそれの表現なのである。
それ故に、自己のために生きる者は、無限に善業を行い続け、誰よりも貪欲に幸福を求め続けるのである。

法華経行者は幸福な人生と不幸な人生を同一のものと見なす。いささかも苦に染まることの無い自己というものをよりどころにしているのである。苦に染まらない自己というものを人に直接伝える方法は無い。あるとしたら、それを表現することだけだ。それが人の世の苦しみを背負い、善業を積み続けるということなのである。
法華経行者にとって苦を背負うこととは自己を表現するための遊びなのだ。」
僧侶が深遠高邁なる教えを説き終わったところで、私は現実に戻った。

たかが人生されど人生
たかが幸福されど幸福
たかが天界されど天界

わたしは僧侶によって投げかけられた難解なパズルを解こうと呟いていた。
人間は彼が言うところの自己は知らない。
自己以外の世界に完全に浸っているのだ。
それでも突破口はある。
私はあることに気がついていた。
それは、死を決意することだ。
幻夢の中で私が試してみたように。
死とともに生きるならば、自己の世界が垣間見えるのではないか。
一日一回は死を決意してみよう。
死は蜜よりも甘いのかも知れない。

了 2017/12/27




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